物語/ストーリー

夢の実現

すべての人に夢はある。そして 夢は実現できるもの。もし本当に信じ、それを叶えたいと思ったら。少し前のこと、私は子供の頃の思い出のあるヤナッカラ、レハッカ村でその夢を実現させた。昔の世代への尊敬と感謝の念からそして次の世代への喜びになればと。

心から感謝するのは、祖父であるカール・ヤルマル・ゴース、祖母エディット・ゴース、そして母カーリナ・ゴース、叔母ヘッレヴィ・ゴースへ。彼らの存在なくしてはクレモラのマナーハウスは決して生まれなかったであろう。

時のパイオニア – イルヤラとクレモラで

クレモラのマナーハウスの歴史はイルヤラのマナーハウスにルーツがある。

イルヤラの初代所有者は1766年から1800年までハメーンリンナ市長を精力的に務めたとして知られているゴットリープ・ヨハン・ジョンであった。彼の妻テレシア・シュグネウスはヤナッカラのレッパコスキ出身でフィンランドの公立学校のシステムの父と言われるウーノ・シュグネウスの女兄弟だった。二人は結婚し、娘ファニーが生まれる。

ファニー・ゴースはパイオニアであり草分け的存在であった。叔父であるウーノ・シュグネウスは勉強のためにと彼女をスイスへ留学させた。勤勉で周りからも評価された女性はユバスキュラセミナーリという学校を設立し、1863 年から1867年まで校長として務めた。ユバスキュラで彼女はユバスキュラセミナーリの体育教師カール・グスタフ・ゴースと出会った。結婚し、アルヴィドゥ・クハ(ゴースからフィンランド語の姓に変えた)、エルサ・ゴース、テレサ・ゴース、カール・ヤルマル・ゴース、という子供たちをもうける。

クレモラの古いマナーハウス、1942年に焼失
マナーハウスの牛舎と従業員の住居1925年

ファニーにとって、多方面にわたっての教養はとても重要だった。そして大切なのは人を教育することとし、ヤナッカラに学校を設立することを推進した。彼女はヒュビッカラの学校設立のため、所有の土地を寄付した。

カール・グスタフ・ゴースは敏腕だった。手早く、大胆で常に新しい物を探していた。かれはアレクサンダー・ウェイリンと共に1872年、ウェイリン+グースという出版社を設立した。カール・グスタフ・ゴースは1917年にその生涯を閉じた。年を同じくしてフィンランドは独立。ファニー・ゴースは1918年に亡くなる。イリヤラの所有は1923年、娘エルサ(旧姓ゴース)とオスカル・モッレルに継がれた。エリック・モッレルにイリヤラの所有が移るのは1962年。ピア・モッレルとエリック・モッレルの娘マリア・モッレルもイリヤラを所有していたが今現在、所有者は変わっている。

イリヤラの分割 – クレモラのマナーハウス誕生

カール・ヤルマル・ゴースは土地を相続し1923年にクレモラのマナーハウスを設立した。ヤルマル・ゴースは自分自身でクレモラの母屋を含むすべての建築物を設計した。しかしクレモラのマナーハウスの母屋は1942年焼失。

クレモラは実用的なファームだった。そして一族に受け継がれていた教養好きなところは、クレモラのスピリットの中にも表れていた。マナーハウスには図書室があり、すべての人が利用できた。

カール・ヤルマル・ゴースの亡くなった1939年、その土地は妻であるエデ ィット・ゴースの所有になり、彼女の死後、娘のカーリナ・ゴースへと受け継がれた。 クレモラは1954年以降、親族が夏を過ごす場として使われた。カーリナ・ゴースは1999年に亡くなる。そして現在この場所の所有は彼女の娘であるエリサ・ゴースである

クレモラ生まれ変わる

子供の頃からある私の夢は、クレモラの土地が、いつかいろいろな世代のいろいろな人々が、自然を楽しみ、クレモラのスピリットを分かち合えるそんな場所であったらということだった。落ち着くことができ、静かでいられ、自分自身を見つめられる場所であったらと。より力がわきでて力を与えられるような場所。

夢が実現したのは2000年代始めの頃だった。クレモラに新しい母屋であるゲストハウスヴィッラゴースと以前は穀物を乾燥する小屋として使っていた建物を手直しして作ったチャペルができた。

クレモラのマナーハウスの子供たち1924年、後ろに見えるのはサウナ
現在のヴィッラゴースの階段から撮った夕暮れ時の写真


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